幼少期からスパルタ教育+2刀流

どうも~!彼に夜ご飯を作らせ自分はのんびりベットの上でブログを書いているユリコーン🦄です。

 

 

前回の自己紹介の記事が大人気だった(現時点でpv数2!!!!!!おーい)ので今回も自己紹介の続きをしようかと思います。

 

 

 現在の私の事は前回の記事で書いたので↓

yurikoyade.hatenablog.com

 

 

今回は25年前にビューンとタイムスリップしてお話していきたいと思います。

 

ユリコーン誕生

さかのぼる事25年前。

私は宮崎県のそこそこ大きい病院で生まれました。(1994年5月4日)

 

第1子という事もあり家族ともに私の誕生を心から喜ぶ中、

私の母は、新生児室に並ぶ赤ちゃんをみてビックリ!

 

 

他の赤ちゃんと比べ私の頭があまりにも大きすぎる

「こんな頭の大きい子は自分の子じゃない」っと思ったそうです。←ひどい①

 

 

まあこんな感じで誕生した私は両親にとって第1子、祖父母にとっても初孫という事で存分に愛され、甘やかされスクスクと成長していきました。

 

 

ユリコーン幼少期

幼少期の私はお散歩が大好き。

毎日のように近所を散歩したり、公園に出かけたり

その当時の母は専用主婦だったため、お母さんと過ごす時間は多く

気づけば大のお母さんっ子となります。

 

抱っこもお風呂も寝るときも、すべてお母さん。

姿が見えなくなるだけで泣くほど、祖母の抱っこでも巨人にでも襲われているかのような泣き具合。

 

後から聞いた話ですがその当時祖母(母方)は

「こんなに泣く子は連れてこないで」っと言ったそうです。←ひどい②

本当に依存症レベルでお母さん大好きっこでした。

 

 

3歳まで毎日のように母にべっとり、甘やかされ育った私ですが

妹の誕生と同時に保育園へ送り込まれることになります。

 

保育園へ強制送還される

妹の誕生、他の子どもたちとの交流も必要という母の考えから私は保育園へ行くことになります。

 

まぁ分かり切った事ですが当然私は母と離れたくないとギャン泣き。

 

結果的にそこの保育園へは小学校6年生まで(計9年間)保育園の定義を超えた年数通うことになる超謎な状況になります。

そして現在も日本へ帰った際は必ず行く私の第2の家となります。

 

 

民間の保育園で「先生×園児」よいう関係性ではなく「第2の母×園児」というようなとてもアットホームな保育園でした。

←アットホームというより普通の家の1階を利用した保育園で、もはや普通の家。

 

 

今でいう虐待・体罰なんてなかった時代。

先生(第2の母)からは。生活面・学習面などスパルタに教育を受けてきました。

 

指しゃぶりしてた時は指にからしを付けられ←ひどい③

泣き止まない時は口にセロハンテープ←ひどい④

 

今では考えにくい教育でした。

 

ユリコーン幼稚園へ通う

「他の子どもたちと交流も大切」という母の方針から保育園へ通い始めたのですが、想像を超えたアットホーム感(もはや親戚の家状態)だったため、社会勉強もかねて小学校へ通う前、2年間だけ幼稚園に行くことに。

 

 

しかしその当時、両親共働き。

基本幼稚園は8時から14時という短時間保育であり、共働きの両親にとっては幼稚園だけで子育てするのは不可能。

 

そこで私は

朝は幼稚園バスで幼稚園へ行き

保育園の先生(第2の母)が幼稚園に迎えにきて

母が仕事が終わるまで保育園で過ごす

という2刀流を大谷翔平選手より10年早く身に付けていました。

 

 

私の幼少期時代はこんな感じで平凡なものでした。

 

今回はこの辺にして次回小学生になったユリコーンについて書きます。

 

1人でも多くの人に読んで頂けたら泣いて喜びます。

 

 

 

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